プラスチックで思いをカタチにする会社 株式会社テクノラボ

テクノラボ創業の話(1)「創業のいきさつ、共同経営者との出会い」

テクノラボ創業の話(1)「創業のいきさつ、共同経営者との出会い」

素材開発の仕事がテクノラボのスタートです

テクノラボは2004年に創業しました。

それまで私はネット上で工場のデータベースを運用する会社に勤めていました。

まだ小さい会社でしたが、丁度ベンチャーキャピタルから資金調達ができて事業を立ち上げていた時でした。この会社ではかなり可愛がって貰いました。好きなことをやらせてもらえて、やり甲斐もあって、社内の人との関係も良好でした。

それでも辞めてしまったのが不思議ですが、ともかくももっと面白そうな話が来て、それに乗る形で独立しました。自分が現場に戻りたかったのかも知れません。

 

トヨタのプリウスのエンジン用のガスケットを貼るための接着材があり、その製造工程を受け持つ仕事でした(一部の工程ですが)。クレハの技術者が持ってきた話ですが、既に最終選定2社の内の1社に入っているから絶対それなりの販売量は確保できる!って言われ、乗ってしまいましたが、いま思えば甘かったですね。結局その仕事は5年くらい、試作を何度もさせられた上で決まりませんでした。

この仕事、テクノラボともう一社(もっと大きい会社)がたきつけられて始めたのですが、おそらく我々は当て馬でした。そもそも体制的にトヨタが受け入れるはずがなかったのですね。

トヨタ(かその下のTier1)にしてみれば本命の会社の尻を叩くための当て馬として、丁度良いボランティアを見つけた位の感覚だったろうと思いますが、当時はそれが分からなかったんですね。

クレハの技術者は、努力して性能をあげれば何とかなると騒いでいましたが、保安部品なので、補償能力のある大企業の看板無しに相手にされるわけなかったのでしょうね。

 

会社のターニングポイント、最強パートナーとの出会い

3年目に入る頃にはこの案件がダメなのが分かり始めて、会社の行き方を再検討せざるをえなくなりました。それが今テクノラボがやっている仕事の原型である、少量生産です。

ビジネスプランを何度も作って、オーディション(今で言うピッチ)をいくつもこなして賞も貰いました。結局投資は得られませんでしたが融資が少し出て、動きが取れるようになりました。

その時に入社したのが、共同経営者の大島です。

彼は親父さんのカメラ会社で長年デザエンジニアとして働いていましたが、その会社が廃業したため、フリーのテクニカルライターとして生計を立てていました。しかし景気が悪くなり、それが厳しくなったので職探しをしている中で、テクノラボに飛び込んできました。

だから出会いは全くの偶然で、それまではお互い全然知らなかったのです。

彼が履歴書と職務経歴書を持って現れた時、???って思いました。

本も結構出版してるし、デザイナーとしてのキャリアもちゃんとしているので、なぜテクノラボに来たんだろうって。

 

ともあれ大島が合流したことでテクノラボの仕事の方向性が決まりました。

大島が得意なデザイン・設計と、林の得意な量産が会社のリソースとして使えるようになったので、これを軸に仕事を再構築しようと思ったのです。

それからはリーマンショックがあったり、震災があったり、ずーっと逆風が吹き続けてきたけれど、お陰で人の下請けで仕事をするんじゃなくて自分で仕事を作ろうと思いました。

自分たちで先に欲しがられるものを作ってしまえっていうマインドセットになれたことは、貴重な財産だと思っています。

 

創業からすでに10年以上が経ちましたが、気づけばまた技術の蓄積もかなりなものになってきたと感じています。金型だけで言っても本金型200面以上、簡易金型300面以上をこの10年で作って来たので。数だけでいえば、日本の金型メーカーとしてもトップ50に入るレベルですが、その割に売上低いのはずいぶん安売りしてるって話ですね。それについてのイイワケはまた別の稿で。

創業ストーリー2へ続く